2009年7月 7日 (火)

見えない星空

 いつものことですが、朝4時を過ぎたころに目が覚めます。再び眠りにつくことはなく朝の散歩に出ます。一番先に向かうのは、福厳寺というお寺でその入り口に数体のお地蔵さんが祀ってあります。お地蔵さんたちの名前は延命蔵と名付けられています。そこにお参りするのです。灯明をつけ、その灯で線香に火をつけます。お地蔵さんへの私の願いは「家族の健康、会員の皆さんが儲かりますように、生活をもう少し楽にして下さい」と願います。毎日、5円の賽銭です。一昨日、ポケットに100円玉しかなく、しぶしぶ100円のお賽銭を置いてきました。その御利益でしょうか、ノア銘柄が急伸しています。
 早朝の散歩の途中、蝉の声を耳にしました。そろそろ梅雨が開けるのでしょうか。7月の暦を見て見てみますと、2日が半夏生、7日が小暑、七夕、15日が盆、19日が土用の丑、23日が夏の盛り「大暑」となっています。
 夏の土用は、7月19日から8月6日まで、立秋の前の18日間です。ほかの季節の土用も、立夏の前、立冬の前、立春の前18日間がそれぞれの季節の土用となっています。 土用とは「土旺(どおう)」が転じたもので、陰陽五行(木、火、土、金、水)のうち「土」の気がもっとも旺(さか)んな時期という意味です。
 また、五行とは、万物の根元を木、火、土、金、水の五の元気とし、天地・万物・人事の動静はみなこの理に支配させられるとしたものです。土用とは、春夏秋冬のもっとも季節の「気」の強いとき、すなわち、もっともその季節らしい時期を土用というのです。
 雑然とした玄関のプランタンや鉢に、夏の花が一斉に咲き始めました。
 花スベリヒュー、葵、朝顔、夕顔、桔梗、コスモス、サフィーニア、ペチニア、ランタナ、ナデシコ、カーネーション、花タバコ、カランコエ、折り鶴ラン、トレニア等です。 先日、家内にバラをひと鉢プレゼントしました。部屋で咲き終わったようでしたので、小さな鉢から大地に植え替えてあげたのです。そのバラまでほかの花に誘われて再び咲き始めました。鉢植えの時は、白いバラだと思っていましたら、大地に植え替え、太陽の恵みでしょうか、きれいなピンクの色に染まって咲いています。
 梅雨の雨のせいでしょうか。それとも周囲に華やかな花が咲いたせいでしょうか、紫式部(クマツヅラ科)の花が咲こうか咲くまいかためらっている様子です。
 ピラカンサの花は、梅雨の雨に洗われ花が散り、花が散ったあとにマツチ棒の頭ほどの青い実を無数につけていました。
 さあ、いよいよ大暑、昨年の夏はリーマンショックの前触れでしょうか。相場がはっきりとせず、秋まで梅雨のしめった空気を引きずった夏でした。今年こそ夏の季節を満喫したいものです。そして、今年こそ五尺の身体全体に真夏の太陽を浴びてみたいと考えています。
 沖縄の夏の日差しは、矢のように身体に突き刺さってきます。最近ですが、気がつくと「安里屋ゆんた」を口づさんでいました。それも「安里屋ゆんた」は沖縄の方言で歌っているのです。何故かなと思いましたら、いま沖縄がニュースの中心になっているせいかもしれません。
 家内の里は沖縄・那覇のど真ん中、それも国際通りのど真ん中でした。そして、ほんもののふる里は南の果て八重山なのです。まだ、パスポートがないと沖縄に行けないとき、何度か沖縄の土を踏みました。もちろん、ほんものの美しさを持っている八重山の珊瑚礁の海にも足を浸しました。
 先日、七夕が近づきましたので、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」を読み返してみました。
 宇宙には、1千億個の銀河があり、それぞれの銀河には平均して1千億個ほどの星があります。そして、すべての銀河の中にはその星とおなじくらいの数の惑星があるのです。その総数は、百億の1兆倍となるのだそうです(カール・セーガン博士)。
 その百億の1兆倍という星のたった一つの星、その地球の上で、人間は悲鳴を上げ犇めいているのです。むかし、沖縄よりさらに南の八重山諸島で眺めた夜空の美しさを思い出しました。八重山の海が美しいのは勿論ですが、星空の美しさも言葉には表せません。八重山の夜空には、都会の何十何百倍もの星が浮かんでいます。都会の子供たちに見せたい星空です。沖縄の人たちは、その目に見える宇宙に畏敬の念を覚えるのでしょう。こんな歌がありました。
 『ああ上がる三日月。あれは美しい神の弓/ああ上がる赤星。あれは美しい神の矢/ああ上がる群れ星/あれは神のくし。あのたなびく雲は神の帯』。
 都会の夜空から星が消えてしまいました。上を向いても見えない星空、これから先その消えた星によって失うものの大きさを考えると夏の夜でもブルッと身が震えるのです。

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2009年6月30日 (火)

土用丑の日

 まだ、日がこんなにも長くならない頃でしたから、たぶん4月か5月の頃です。長男夫婦が「うまい鰻を食べたい」と言っていましたので、「土用に美味しい鰻をご馳走してあげる」と言いましたら、何を勘違いしたのか、次の土曜日に夫婦揃って顔を出したのです。その晩は、家族一同で馴染みの鰻屋ののれんをくぐりました。
  地元で2軒の鰻屋を利用しています。1軒は、味にこだわっている店で、戦前からの「たれ」を家宝として少しづつ新しい「たれ」を加えているのだそうです。川魚のなま臭さをころした絶妙な「たれ」の味は、堅めに炊かれた重箱のご飯の旨さを鰻以上に引き立てています。
 もう1軒の鰻屋は、浜松からちょっと離れた町の小さな鰻屋です。その店はウナギそのものにこだわり、天竜川でとれた天然のウナギしか扱わない店なのです。天然のウナギは、養殖のウナギと較べて身がひき締まり、人工餌で育った養殖の鰻を食べなれた舌に新鮮味ある本当の鰻の歯ざわり舌ざわりを味合わせてくれます。しかし、天然ウナギだけですので、天候不順で天竜川の水かさが増したりなどしますと肝心なウナギが捕れず開店休業の日が続くのです。
 友人が遠方より、この地を訪れてくれるとき、「味」にこだわるのか、「鰻」そのものを味わうか、その友人の性格に合わせて、店を選ぶことにしています。
 7月5日が静岡県知事の選挙、12日が都議会議員選挙、そしていよいよ衆議院議員の選挙となります。むかし、選挙の「投票所入場整理券」をコレクションしていた男がいました。選挙に行っていないということです。政治に対するささやかな抵抗だったのでしょうか。
 「ウナギは、ぬらりくらりとして始末におえない。海水でも淡水でも生きられるしぶとさを備えている。泥の中に身を隠すすべも知っており、その生態はなんとも精力的である。別に政治家の姿に結びつけようとして、特性を並べたわけではない。どんないきのいいウナギでも、新聞紙で押さえると、屈指の自由がきかなくなる」と書いた本がありました。
 本来、鰻は庶民の食べ物です。鰻屋の店先から流れるたれの焦げた匂いは、決して貴族やセレブの方々に似合う匂いではないような気がします。庶民の私たちは、蒲焼きの匂いなら腹一杯吸い込んでみたいと思いますが、今の政治の臭いを吸い込んだら、大気汚染より質が悪く、またたくまに窒息死してしまうのではないでしょうか。そんな政治家がウナギの特性に似ているなんて言ったら、日本一のウナギを自慢している浜松っ子に、はじき飛ばされてしまいます。ましてや、遠方よりはるばる訪れてくれる友人たちにそんな物をご馳走するわけにはいかなくなります。
 今年、土用丑の日は7月19日、私はその日また重い年を重ねます。

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2009年6月23日 (火)

友人K

 「洗心録」というのは、私の日記帳のタイトルです。心を浄めたいということで名付けたタイトルですが、この年になっても、人間臭さ、染みついた垢は洗い流せないようです。昔の「洗心録」を振り返っていましたら、友人Kのことを書いたページを見つけました。

 先日、「オレの頼みをきいてくれないか・・・・」と、名古屋CBCTVの報道部テレビニュース部長K氏から電話がありました。一体何事かと思いましたら、テレビ番組の映画を録画してほしいとのことでした。ここ地元放送局の静岡放送が金曜日の深夜には、映画をノーカットで放送しているのです。彼はそのことをテレビガイドで知り、2本の映画の録画を依頼してきたのです。
 頼まれた映画は、フレッド・アステァの1936年「トップ・ハット」と1942年の「スイング・タイム」の2本です。とおに50歳を過ぎたK氏が、この歳になっても、映画にかけた学生時代の青春を引きずって生きているのだなと、ロマンチストの友人の名前が、何冊も書き変わった住所録から消えていないことにちょっとした嬉しさを覚えたのです。
 学生時代、彼との最初の出合いのきっかけはやはり映画でした。遅めの登校の途中、電車の中で彼と出合いました。いままで余り口を聞かなかった彼から「講義は来週もあるけど、この映画は今週で終わってしまう、だから映画に行こうじゃないか」と声を掛けられました。私も映画が好きでしたから1にも2にもオーケー。話がまとまり暗い映画館に入ったのが交友の始まりでした。
 ある日、彼を下宿に招き、大切にコレクションしていた200冊ほどの映画パンフレットを見せ自慢したことがありました。その後、彼の自宅に遊びに行ったとき、私の集めた4倍ほどのパンフレットの山を見せられ、兜を脱いだ覚えがあります。
 二度目の出合いはテレビニュースでした。浜松市の郊外で、山火事の取材をしていたヘリコプターが事故を起こし田んぼに墜落したのです。そのヘリコプターにニュースカメラマンとして乗っていたのです。その事故の報道ニュースで、岩波映画に就職して、フィルムを回していましているものと思っていた彼がCBCテレビのニュースカメラマンであることを知ったのです。その事件から30年近く経ったのですが、先日、ある会合に友人を講師として招きました。ヒョンなことからヘリコプターの話が出て、講義を聴きに来た人の中に、その時ヘリコプターの事故を警察に知らせたのは私だという方がいました。
 その後、TBS系列番組の名古屋近辺のニュース画面で、水害や犯罪の残酷な映像の中にも、カメラワークを活かして、息の抜ける美しいショットがあるのに気づきました。そんな画面を見た後、K氏のところに電話をして、「あのニュースは、お前さんのカメラではないか・・・」と尋ねると、そのとおりK氏の回したフイルムだったのです。
 現在、とおに定年の年をすぎているK氏ですが、この何もかもデジタルの時代にフイルムを扱える人間が居なくて、いま彼はフイルムライブラリーの管理の仕事をしています。当時、時代の先端で活躍していた彼ははフイルムを扱う黄金の腕をもつ「職人」として活躍しているのです。ほんとうに羨ましい限りです。
 岩波映画でカメラを回しているとき、沢村貞子さんに呼ばれたそうです。そこで「あなたは、いつまでもここでカメラを回しているつもりか、ほかにあなたの腕を活かせる場所があるはずだ」と言われて移ったのがCBCTVでした。
 学生時代、彼にシュトルムの「みずうみ」というドイツ文学の小説を薦めたら、本当にいい本を読ましてもらったと感激していました。
 彼の心髄に流れているロマン、映画にかけた青春、彼はそれをいまだに引きずりフイルムと戯れているのです。そんな彼の手になる映像を見られる名古屋地区の皆さんは気づかない幸せを目にしているのです。

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2009年6月16日 (火)

梅雨の晴れ間

 6月10日は「時の記念日」でした。私の体内時計は時たま乱れますが、いまのところ油切れもせず、一層勢いを増し回り続けています。
 今から50年ほど前のことです。家内が沖縄に帰った時、私の父親へのおみやげがドイツ製のカメラ、そして、私にはオメガのシーマスターを買ってきてくれました。その少し前に、私はグランドセイコーを買い求め愛用していました。当時、グランドセイコーは日本一の腕時計で5万円ぐらいだったと覚えています(今のグランドセイコーは高価でもう私の手に届きません)。そこにオメガ・シーマスターが加わりました。そのオメガは定期的にオーバーホールを施し、本当に大切に使っていました。しかし、20年ほど前に皮のバンドが切れどこかに落として無くしてしまいました。私は必死になって同じシーマスターを探し求めました。そしていつの間にかオメガ・シーマスターにはまってしまったのです。現在、4個のシーマスターがワインダーで回っています。いずれも1962年から73年のビンテージ物です。
 親父は明治の人間ですので、カメラ、時計、万年筆は貴金属としてとても大切に扱っていた人でした。1992年に他界しています。そして、親父の唯一の遺品としてカメラを手元に引き取りました。40年前のカメラですがかすり傷一つない美しいカメラです。
 その時代の日本では、オメガは三種の神器と呼ばれてました。三種の神器とは、パーカーの万年筆にロンソンのライター、そしてオメガの時計のことです。それらは庶民には欲しくても手が出せない高価な商品で、男ならいつかは手に入れてみたいと思い描いた逸品で、高級舶来品の代名詞でもありました。

 私が20歳、50年前の時代、時計は貴金属の部類でした。いまではロレックスが時計の王様のような位置にありますが、当時はロレックスよりオメガの方が人気がありました。いつの間にかロレックスがオメガより上の位置になっていたのです。
 学生時代、新宿で呑んでいるとき、いつもゲルピンチ、不足の勘定は誰かの時計を質屋に運んでいました。いまのGショックでは飲み代の足しにはならないでしょう。

 もう次の日曜日の21日は「夏至」なのです。夏至とは文字からいえば夏の真っ盛りということになります。地球の北半球では昼間が最も長く、夜が短い日なのです。この日から冬至(12月21日)まで次第に昼間の時間が短くなってゆきます。年のせいでしょうか、このような事柄も、文を読み、文字を書き「ああ、そうだった・・・」とうなずき納得します。
 暦の上では「夏の真っ盛り」、農耕民族の私たちの日本では、ここから各地の神社で、夏から秋に向かっての「祭」が始まるのです。大体、この頃には田植えが終わり、一段落つけて豊作を願い祈る、それが日本の夏祭りの原点なのです。
 梅雨の晴れ間、玄関脇の紫陽花の葉からつやが消え、まるで肩で呼吸(いき)をしているみたいです。やはり梅雨には雨で濡れた紫陽花が似合っているようです。
 散歩の途中、少なくなってしまった畑の端で可愛い白い花がうつむいて咲いているのを見つけました。ピーマンの花でした。顔を近づけて見てみますと、花ビラの奥に緑の芯が見えました。やがて膨らみつやのあるピーマンの実となるのです。
 白い花といえば、じめついた家の裏側で群生しているドクダミも白い可憐な花を咲かせます。滅多に目を向けないのですが、この頃、ドクダミが白十字の花を咲かせるのを思い出し写真に撮っておきました。名前も香りも人から好かれる花とは思えませんが、薬草としては随分重宝がられているのではないでしょうか。最近では「ドクダミ茶」なるものまで出回って人気があるみたいです。このドクダミの花も梅雨の風情が似合う花です。
 「夏至」を迎えるいま、梅雨の雨に洗われてみどりがいちばんきれいな時期です。

    悲しめるもののために
    みどりかがやく
        くるしみ生きむとするもののために
    ああ みどりは輝く

 室生犀星の「五月」という詩です。緑が美しく輝く梅雨の晴れ間でした。

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2009年6月 9日 (火)

『花の文化史』

 ひかえめに咲いたスズランの花が気持ちを凪ぐませてくれます。1鉢300円で買い求め、地に移してあげた花です。スズランの花言葉は「幸福がかえる」です。
  スズランは、日本には「君影草」の名前があり、ヨーロッパでは「聖母の涙」という名前があり、ドイツでは「五月の小さい鐘」と呼び、スズランの花が一つ一つ段をつけて咲いていることから「天国への階段」とも呼ばれているのだそうです。
 この花は、白い鈴を思わせるその涼しげな姿から、人の心を鈴の音で洗い清めてくれているみたいです。また、フランスでは、5月にスズランの花束を贈ると、贈られた人に幸福が訪れるという言い伝えがあります。スズランは、ひとの気持ちをなぐませ、ひとを幸福にして、ひとを詩人にする、雰囲気を漂わせる花なのです。フランス語の「鈴蘭する」は「女に好かれようとする」の意味になると詩人・春山行夫が『花の文化史』の中で書いています。
 しかし、スズランがみんなから全てもてはやされているのではありません。北海道の酪農地域では「ベコ(牛)も食べない始末の悪い草」「この草が群生するところは不毛の地だ」と嫌われているのだそうです。ロマンと現実の世界の落差を知らされる思いです。
 ちなみに、函館市郊外のトラピスチヌ修道院の丘には、野生のスズランの花が咲いているとのことです。
 春山行夫の『花の文化史』【註】という本の中にこんな文章を見つけました。
 夏目漱石の日記風の断片に、『それから』の構想の覺書らしいものがあって、
 ○リリー・オフ・ゼ・ワ゛レー、神經過敏。日本現代ノ不安ニ襲ハレル。
  ○三千代來。銀杏返。白百合。息ヲ喘(ハズ)マセテゐる。水。リリー・オフ・ゼ・ワ゛レーノ鉢ノ水ヲ呑ムとなっているのは暗示的で、明治四十二年の日記の六月十五日には
 昨日森が呉れたリリー・オフ・ゼ・ワ゛レーを大丼に浸し紫壇の机の上に置く。其下に晝寢す。異香あり。
という覺書がある。漱石はこの花の異香や、それを浸した水に毒のあることを、頭のなかで考えていたにちがいない。

 漱石の『それから』は、50年前の卒論で取り上げた小説でした。

 春山行夫の「花を求むる日」という詩です。

  はなばな咲きつらなるはいづこの都市(まち)なかなる
  けふはきぬいとの小雨つかれたるがごとく降りやめども
  かなりあいろのいたりあかねるはぬれたるがごとく空にかかり
  まぼろしの窓に凭りて眺むれば四月(うづき)もいとさびしげにして
  青きぱらそるらながれる巷におよぎいでて
  花売りのさまよへる匂りのあとをおひたき心持せまる

 春山行夫の詩集『花花』『植物の断面』は、春山の新しい詩論をもって創造したすばらしい詩集です。
 朝の散歩は草花や木々の語りかけにも耳を傾けることが出来ます。今朝は、たわわに実をつけている桃を見つけ、白い花が満開の栗の木を見つけ、花が落ち、柿の形になったばかりの柿の実を見つけました。
 まだ、明け切れぬ青みを帯びたグレーの空を背景にして、長細い白い花が重なって咲いている栗の木は、まるで東山魁夷の絵を見ているようでした。
 「桃栗三年、柿八年」。歩きながらこんな言葉を思い起こしていました。今の若者たちはこんな言葉を知っているのでしょうか。単純に、「桃と栗は実が成るまで3年、柿は8年かかる」ということなのですが、考え方によっては、「桃だって栗だって実を結ぶまでに3年という月日がかかる、ましてや柿は8年の月日を要するのだ、人間なにをやるにしても少なくとも3年、8年は頑張らなくては稔らないよ」という教訓なのでしょう。
 紫陽花の花が「6月です。そろそろ梅雨に入りますよ!」と、美しい姿を誇らしげに話しかけてきます。
 こんもりとまるい花びらの青いかたまりが「圓か」(まるい意味と、おだやかなという意味があります)という形容を誘ったのでしょう。集真藍(あずさあい・真青なもののかたまり)が、縮められてアジサイとなったようです。

  あぢさゐの八重さくごとくやつ世にをいませ吾背子見つつしのばむ

 もう、万葉の時代にアジサイは歌われていました。花片のかさなりむらがるさまに、愛の深さをなぞらえています。はじめ白い花が、水色となり、薄紅がさされ、紫色に染まります。紫陽花のことを、刺繍花、八仙花、七変化と呼んでいます。
 6月の雨に濡れた花姿は、ひとしお風情をかもしだします。生娘から人妻、あるいは娼婦へと変身する妖しい女の《性》を眺めるようだ、と言ったら考えすぎでしょうか。
 近くに紫陽花寺があります。幾株となく群生した花の景色は、息をのむ華やかさです。

 花二つ紫陽花青き月夜かな   泉 鏡花
 紫陽花のきのふの誠けふの嘘  正岡子規

【註】春山行夫著『花の文化史』は昭和29年12月15日発行の本です。昭和29年は1954年ですから半世紀以上も経つ本です。紙もざら紙で読みづらい本ですが、当時としてはとてもおしゃれな格好の良い本でした。昭和29年と言いますと私が高校2年の時の本です。

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2009年6月 2日 (火)

五月闇

 6月は水無月。水の無い月というのに、暦の上で11日が「入梅」です。
 6月11日の3時26分というのは、立春の日から数えて135日目、太陽の黄径が80度に達する時刻を「入梅」というからです。
 ちなみに入梅とか梅雨の梅は、ちょうどこのころ梅の実が熟することからでています。
  梅という木は不思議な木です。春の象徴とされている桜の花より、ひと足先に春を告げ、梅雨の紫陽花より先に梅の実を熟して、夏の到来を知らせてくれます。
 6月1日は衣替え。中学生、高校生の黒っぽい制服が白く明るい衣に替わり、街の風景が化粧をほどこしたようです。これから迎える梅雨の暗くうっとうしい感じを遠のけてくれています。これも人間の知恵なのでしょうか。
 入梅、梅雨のころは、ちょうど旧暦の五月にあたるからでしょう、広辞林を開いてみますと、五月(さつき)のところに、五月雨、五月晴れ(つゆ晴れ)、五月山(さみだれのころの山)、五月闇と梅雨の季語に五月(さつき)が主となって使われているのに気づきます。五月(さつき)を使ったほうが、ほんものの梅雨を迎える六月を使うより、サラッとしてジメジメしていません。
 六月雨、六月闇では、言葉として余韻も逃げ場もありません。太陽歴と陰暦を絡ませた日本語の「あいまいさ」が、日本語の美しさとなっているのです。
 この季節、しとしとと降り続く「五月雨」、梅雨どきの夜の暗さを表した「五月闇」、梅雨のわずかな晴れ間を歓んだ「五月晴」は、梅雨の暗い淋しい季節を細やかに使い分けた言葉です。
 日本の四季の移ろいの美しさ、日本語の形容詞の美しさ、これは世界のどの国にも見られない日本独特の美しさなのです。
 私たちが知らず知らずに接している自然の移ろいと、季節ごとの言葉の移ろいは、日々の生活に潤いと、より豊かな感性を膨らませてくれているのです。

 むかし、ジーン・ケリーが監督、主演した「雨に唄えば」という映画を40回ほど続けて観ました。そして、雨が好きになりました。
 余分なことですが、あの映画で雨のシーンを強調するために、水に牛乳を混ぜて雨にしたのだそうです。今から半世紀以上前、1952年のMGM映画でした。
 ちなみに、今この時になっても、「雨に唄えば」の全シーンを思い浮かべることができます。若いときの脳細胞、記憶メディアは性能が良いのですね。

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2009年5月26日 (火)

風薫る

 5月もあと数日で行ってしまいます。名残惜しいような気がするのも年のせいでしょうか。5月を代表する季節の言葉に「風薫る」という表現があります。季語に「青嵐(あおあらし)」という言葉があり、5月、万緑を吹く風で強い感じの風をいいます。言葉から、青葉、青草を吹き抜ける印象です。この5月はあっという間に私の身体を吹き抜けようとしています。
 青嵐という言葉は、視覚を中心に感じる風ですが、薫風は嗅覚に焦点をおき、南から若葉の香りをはこんでくる風、それがさらに風が薫るという詩的な表現に熟成したのです。「薫風南より来り、殿閣微涼を生ず」(唐太宋)などと漢詩にも使われています。
 玄関の前に並べられた数十個のプランタンに、今年の花が咲き競い、疲れた目を癒してくれています。
 美しく装い、薫風とたわむれている彼女たちの名前は、ミヤコワスレ、ヤグルマソウ、サクラソウ、Baikautsugi007スィートピー、ワスレナグサ、アッツザクラ、ハナカンザシ、チドリソウ、キンギョソウ、オダマキ、ムルチコーレ、ゼラニューム、マイコイデス、バビアナ、ロベリア、ハナビシソ ウ、バーベナ、ネモフィーラ、シラン、エビネ、そしていま、気品に満ちた美しさを誇らしげに見せているのがバイカウツギです。
 とおのむかしに子育ての終わった家内が、土を作り、種を撒き、花を咲かせ育てるのが、唯一の楽しみなのです。そして、昨年もそうでしたが、今年もうちを花屋と間違えて、訪れる人がいるくらいに花が咲いています。彼女たちの名前の中で、ミヤコワスレ(都忘れ)などは、宮廷時代の趣を感じる最も好きな花の名前です。
 じつはそれもその筈で、鎌倉幕府の討滅(「承久の乱」1221年)を企てて敗れた順徳天皇は、佐渡に配流の身となり孤独な生活を送っていました。ある日、可憐な紫色の草花に目をとめ、むかしの栄華も、都恋しさも、忘れさせてくれるほどの花だと称されたということです。そしてそれがもとで「ミヤコワスレ」の命名が成ったという言い伝えがあります。なんとなく、人のこころを惹きつける花の姿とその名前です。
 ヒトリシズカ(一人静)という名前にも心惹かれます。
 ヒトリシズカは杉木立のやや薄暗いところにかくれるように静かに咲いているのだそうです。そんなところにすっと立っているかれんな花をみますと、「君はそこにいたの」と声をかけたくなる花なのだそうです。
 4枚の葉の上に、小さな白い火花をちらしたような花がついています。火花のように見える花がおしべで、この花には花びらがありません。静御前が静かに舞う姿のようだ、ということで「一人静」と名付けられたのだそうです。同じような花が、寄り添うように2本の花穂をつけているのが「二人静」という花です。
 昔の人は、山の花、野の花に本当に素敵な名前をつけて上げていたのです。

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2009年5月19日 (火)

鎮魂歌

 毎年、この文章は妹たちへの鎮魂歌のつもりで書いています。

 今年もこの季節が駆け足で通り過ぎようとしています。
 この時期(5月13日から5月31日)、あちらこちらの躑躅の花が赤く、そして白く紫く燃えているのです。ところが今年はもう躑躅の花の盛りは過ぎて、花が萎れていつもでしたら萌えている躑躅の姿が萎びた哀れな様相となっているのです。
 一般には躑躅は「きりしま」が人家に栽培されているのです。枝先に赤い漏斗状の花を繖(からかさ)型に咲かせます。その花の色は種類によっていろいろです。白、紅、赤、紫、黄、絞りなどです。真紅のものは燃えるような花の姿となるのです。

 先週の13日が私の妹の命日なのです。亡くなったのは昭和20年5月13日でしたから、64年目ということになります。話は違いますが、一般的には回忌は50回忌までで、その後は100回忌、150回忌は記念的な色彩となっていきます。
 昭和19年(1944年)のことです。浜松には飛行場と練兵場のほか軍需工場が数多くありましたので、徐々に空襲が激しくなってきました。そこで、私たち家族は父を浜松に残して、母と私、それに5才と6才の年子のふたりの妹と弟、ねいやと6人で母の里に縁故疎開をすることにしたのです。
 疎開先は琵琶湖の北、滋賀県近江今津です。
 滋賀県は周囲を山で囲まれ、狭い地域はいつも大きな琵琶湖のせいで空気が湿っぽくなっています。そのせいで冬は大雪が降る豪雪地帯です。疎開した年の冬は、軒先まで雪が積もっていました。
 戦時中の食糧難は言うまでのこともありません。甘い物に飢え、歯磨き粉の僅かな甘さに喜んだという時代です。いま考えますと、父親は疎開先を間違えたのかもしれません。
 昭和20年5月、幼稚園に行っていた妹が麻疹にかかったのです。それが下の妹にうつり、弟にうったのです。現在でしたら何でもない病気です。しかしまだペニシリン、抗生物質などない時代でした。病状は麻疹から肺炎をおこしてしまったのです。
 上の妹は、肺炎で5月13日に亡くなりました。
 父が妹と一晩抱いていたいと言ったのですが、叔父の手で棺に移されました。棺に打たれる小さな釘と金槌の音が今でも頭の片隅に残っています。私は子供ながらも居たたまれなくなり浜に飛び出していました。桟橋から離れる夜の汽船の灯りが印象的でした。

 下の妹は、町医者のすすめで京都府立病院に移りました。総合病院に移っても、全然クスリが無かったようです。ただ、ブドウ糖の点滴だけだったと記憶しています。
 京都に移った甲斐もなく、妹は5月31日に亡くなりました。
 二人の妹たちが5月13日と同じ5月の31日に亡くなったのです。幼い記憶を辿りますと、その時の両親の悲しむ光景はまるで地獄絵図を見ているようでした。
 上の妹は、比叡山つづきの滋賀県の山で火葬しました。下の妹は金閣寺の裏山まで父の背におんぶされ、私と三人で金閣寺の裏山まで歩いて行きました。
 火葬が終わるまで、父と二人で満開の躑躅の中で待っていました。火葬が終わって、本当に小さな骨壺に父は躑躅の花をそっと忍ばせたのでした。上の妹の時も、下の妹も、どちらの山も真っ赤な躑躅の花で燃えていたのです。
 いつだったか、妹の小さな骨壺を開いて見ましたら、ドライフラワーみたいになった一輪の躑躅の花が入っていたのです。
 父が亡くなり、母も遠に亡くなりました。もう、この世で実際に妹たちの存在を知っている人間が私だけということに、何かしら人間の儚さを覚えます。

 死ぬものは死にゆく躑躅燃えてをり  臼田 亜浪
  盛りなる花曼陀羅の躑躅かな     高浜 虚子

 一番下の孫が幼稚園に通っています。幼稚園に入園したとき「幼稚園に行くのは厭だ」と泣きっぱなしでした。その孫が園長先生に「ママも幼稚園に入れて欲しい」と頼んだそうです。夏休みまでこれが続くかも知れないと諦めていました。ところが幼稚園で男の子が孫を好きになり、毎日門のところで孫の来るのを待っているそうです。孫の泣きは止まりました。「ママ、バイバイ」と言って手をつないで教室に入って行くそうです。
 そんな姿を64年前に亡くなった妹たちとダブらせている今日このごろです。

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2009年5月12日 (火)

ほぼ満足

 来週21日が二十四節気の「小満」です。小満は他の立春、立冬、夏至、冬至などのように聞き慣れない言葉ですが、やはり二十四節気の中の節の一つです。
 二十四節気とは、古代中国でつくられた季節区分法です。すなわち、太陽が春分点を出て再び春分点に達するまでを黄経360度とします。周天360度というのはこのことです。これを24等分した位置にそれぞれの節気を配置して、1ヶ年の気候の推移を知るようにしたものです。
 各節気の1期間は約15日間です。この二十四節気が、1ヶ月に2節気づつ配されて正節(せいせつ)と中気(ちゅうき)に分けられているのです。そして、正節を基準として節入りといいます。
 正節は、耳に聞き慣れた立春、啓蟄、清明、立夏、芒種、小暑、立秋、白露、寒露、立冬、大雪、小寒の12の言葉をさします。
 「小満」の小とは、新暦の5月21日ころの季節、「ほどよい陽気の良さ」に万物が「大満足」ではなく、「ほぼ満足」する季節なのです。中庸のほぼ満足する象から小満という言葉となっています。
 この二十四節気の立春から大寒の24の言葉を暦の上に置き、その言葉を調べますと、古代の中国の知恵が、たった24の言葉に宇宙的な大きさで溢れているのに気づきます。
 中国の知恵といえば、むかし入院中に吉川幸次郎著「中国の知恵」(新潮文庫)を3回ほど読み返しました。この本は「孔子について」という副題がついています。すなわち副題のとおり、論語を自由に切り刻んで楽しい孔子伝に仕上がっています。『論語』なんていいますと、書棚に飾って置く本のような気がしますが、この「中国の知恵」を読みますと、『論語』を読みたくなります。
 孔子は、紀元前552~479年の人です。キリストより5世紀以上古代の人間です。その古代といわれる時代に、現在の日本の政治より数段も進歩した理念を掲げ政治に参画しています。『論語』を読みますと、日本の政治が紀元前500年前の中国の政治より劣っているのに気づくのです。
 吉川幸次郎の「杜甫ノート」「新唐詩選」も愛読書の一冊一冊です。これらの本をひもとく時、その一字一字の活字に著者が古代中国に寄せる愛情が滲み出ているのを感じます。

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2009年5月 5日 (火)

浜松まつり

 紫色と桃色の都忘れの花が輝いています。それが五月です。机の上のコップの中で、数種類の小田巻の花が水に浮いています。紫、赤、青、白、形も色も自然がよくもこんなに複雑な花びらを作ったものだと感心させられます。コデマリの白い花が咲き、オオデマリの花が咲く五月です。コデマリはバラ科、オオデマリはスイカズラ科、コデマリ、オオデマリはあかの他人なのです。
 「五月の夜明けなり、われ筍を掘らんとして、竹林に入れり。光いまだに奥深く来らず、地熱の甘美なる匂ひのみ。筍は何処にありや」。蔵原伸二郎の「筍」という詩です。
 5月3日から5日までの「浜松まつり」は、400年以上の歴史を誇る浜松の代表的な風物詩で、「凧揚げ祭り」を中心とする全市上げてのお祭りです。ラッパの音とともに中田島砂丘を会場に、参加174町(浜松市の町数は536町)による凧揚げ合戦が始まりました。夕暮れからは浜松市中心街をメーンの会場に御殿屋台の引き回しが行われます。
 その家に初めての男の子が産まれますと、「初子」と言い、その子の健康と出世を願って凧を揚げるのです。その凧が普通の大きさの凧ではなく、4畳から10畳余りのバカデカの凧なのです。
 凧を住んでいる町内に寄贈し、凧上げ場で大空に羽ばたくように上げてもらうのです。昼は凧揚げ、夜になりますと、初子を祝って、約300人ほどの町内の子どもや若者たちが家に押し掛け、ワッショイ、ワッショイ、ワッショイ、ワッショイと練って祝うのです。
 祝ってもらう家は、その若衆たちや子供たちの接待をしなくてはなりません。凧の代金、接待の経費が嵩み、子供を産むときは「浜松を離れて産んだ」などという話も聞くほどです。
 ついこの前、初孫のお祝いに凧を揚げたばかりだと思っていましたが、その孫も大学の2年生、光陰流水、速やかに流れ往く月日を恨んで驚いています。ちなみに今年の浜松まつりは、5日の御殿屋台の引き回しは雨で中止となりましたが、147万人の人出ということでした。
 月日の経つのは速いもの。「光陰」は、光は太陽、陰は太陰、月のこと。月日、時間をいうのですが、一説には「光陰」は、古代の日時計の時刻を示す陰のこととも言われています。どちらにしても昔の人は、太陽と月と共に生きていました。天空を経めぐる月と日の、そのゆるやかでしかも速やかな動きを全身で感じていたのでしょう。時間は流れ行く川の如く、速やかに去り行き、二度と返って来ない。「日出でて作(おこ.耕作)し、日入りて息う」。人間である以上、こんな実感にしたりたいものです。
 遠くにお祭りのかけ声を聞きながら、珍しく盃をかたむけてみました。自分が如何に年をとったかと、ビールのホロ苦さをしみじみと味わっています。
 こんな漢詩が、ホロ酔い気分の頭の中をくるくると廻っていました。

  人生根蔕なし 瓢として陌上の塵の如し
  分散して風を逐いて転ず 此れ已に常の身に非ず
   地に落ちて兄弟と為る 何ぞ必ずしも骨肉の親のみならんや
  歓を得ては当に楽しみを作すべし 斗酒比隣を聚む
  盛年重ねて来たらず 一日再び晨なり難し
  時に及びて当に勉励すべし 歳月人を待たず

 待ってくれないどころか、私の「歳月」は放たれた矢に跨って飛んで逃げて行くように感じる、今日この頃です。

静岡新聞の浜松祭り動画サイトです。
http://www.shizuokaonline.com/digireport/20090424132614.htm

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