お雑煮
朝の4時は真っ暗です。上弦の月がシンシンと輝いています。月の光も月の形も、真冬を象徴しているかのようです。先達ってまで、風とたわむれて目を楽しませてくれていた萩の木が、あっと言う間に葉が落ちて、竹箒のように骨ばかり木となっていました。真冬がやってきたのです。
『我輩は猫である。名前はまだ無い。どこで生れたか頓と見當がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いて居た事丈は記憶して居る。吾輩はここで始めて人間といふものを見た。然もあとで聞くととそれは書生といふ人間中で一番獰悪な種族あったそうだ。此書生といふのは時々我々を捕まへて煮て食ふという話である』
『吾輩はとうとう雑煮を食わなければならぬ。最後にからだ全体の重量を椀の底に落す様にして、あぐりと餅の角を一寸許り食ひ込んだ。此位力を込めて食ひ付いたのだから、大抵なものなら噛み切れる訳だか、驚いた! もうよからうと思って歯を引かうとすると引けない。もう一返噛み直さうとすると動きがとれない。餅は魔物だなと疳(かん)づいたときは既に遅かった。沼へでも落ちた人が足を抜こうと焦慮る度にぶくぶく深く沈むように、噛めば噛むほど口が重くなる。歯が動かなくなる。歯ごたえはあるが、歯ごたえがある丈でどうしても始末をつける事が出来ない』
『・・・・次第に楽になってくる。苦しいのだか難有いのだか見當がつかない。水の中に居るのだか、座敷の上に居るのだか、判然しない。どこにどうしてゐても差支はない。只楽である。否楽そのものですら感じ得ない。日月を切り落し、天地を粉齏して不可思議の太平に入る。吾輩は死ぬ。死んで此太平を得る。太平は死ななければ得られぬ。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏難有い難有い』
夏目漱石『吾輩は猫である』の冒頭の文章と正月の風景と最後の文章、生まれる時と正月と死ぬところの部分です。先日、飼い猫が死にました。私の家に来てから18年も経ちましたから、人間でしたら「きんさん、ぎんさん」の年齢、大往生といったところです。ボケもせずコロッと逝きましたので、家内は切々と「人間もあんな死に方ができたらいいなあ・・・」と、ふっとため息をついていました。
正月、「正」はあらためる、あらたまるという意味で、年のあらたまる月、つまり一月を正月と呼ぶのだそうです。正月には他に、初空月(はつそらづき)・年端月(としはづき)・首歳(しゅさい)・献歳(けんさい)・初陽(しょよう)・子春(ししゅん)・さみどり月・霞初月(かすみはつづき)などいろいろな呼び名があります。
古くは一月を「睦月」ともいいますが、これは正月になると人々が睦まじくゆききするところから生まれた名称です。この渇ききった新しい現代社会には、ただ単に月があらたまるための「正月」より、世界中の人々が仲むつまじくするように、古い「睦月」の名称の方が必要なのかもしれません。そして、地球をひとつの鍋として、あらゆる国の人たちが交じりあい、雑(多)煮のように互いにうま味を出し合ったら、美味しい雑煮が出来上がることと思います。
ところで、お宅のお雑煮は何風でしょうか。日本の各地でそれぞれ特色あるお雑煮がお正月の膳をにぎあわします。私の家は白味噌仕立てのお雑煮なのです。昆布とスルメでだしをとり、白味噌(絶対に白味噌です)を日常のお味噌汁より、僅かばかり気分的多めに入れます。煮立たないうちにお餅を入れ、火を止める前に小松菜で青味を添え仕上がりです。お椀によそってからかつお節の削りたてををふりかけていただきます。
これがわが家の略式関西風お雑煮、運動不足のお正月に、味がアッサリしていますので食べ過ぎ、消化剤の世話になるほどです。ぜひ一度、試してみてください。
私の母は関西出身で、父親は九州出身ですので、子供の頃、母は白味噌仕立てのお雑煮と醤油仕立ての澄まし汁雑煮と2種を膳に並べていました。多分、来年の睦月のお雑煮は亡き母の雑煮の味を想い出しながら、新しい箸を運ぶことでしょう。
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